全沖縄空手道連盟紋章 


1.三つ巴とこぶし
    沖縄を中核とする空手道
2.円環
    初めも終わりもない永遠円満で
    平等で平和なるもの
3.二頭の龍
    相助け合って永遠に沖縄空手道の
    真髄を守り通す

 全沖縄空手道連盟の沿革 


 沖縄空手界で組織と名の付くものが誕生し、その名のもとで公的な活動が本格的に始められたのは戦後のことである。しかし、活動の程度は不明であるものの、組織化への胎動が始まったのは大正年間のことである。

 大正七年四月に、後年糸東流の開祖となった摩文仁賢和の家(首里)を集会場として船越義珍、花城長茂、知花朝信、摩文仁賢和、徳田安文、城間真繁、徳村真澄、石川隆行等々が中心となって「唐手研究会」を創り、理念研究や技術練磨の共通の場にしていた。

 また、大正十三年前後に那覇の旭ヶ丘の裏に「唐手研究倶楽部」が設けられ、宮城長順、許田重発、新里仁安、真玉橋景洋、城間真繁、喜屋武朝徳、本部朝基等々がよく出入りしていたようである。この二つは同好会的な性格の強いものであり、組織として活動があったかどうかは定かではない。大正十五年三月に、上記の同好会に関与していた人々を糾合する形で「沖縄空手倶楽部」が設立され、名実共に組織としての活動を開始するようになった。「沖縄空手倶楽部」は沖縄の空手史上初めての組織団体である。この倶楽部は、昭和五年十一月二十一日の「沖縄県立体育協會」の創立に伴って同会空手支部となり、公的な性格をおびるようになり、三年後の昭和八年十二月八日に、「大日本武徳會」(明治三十五年五月創立)の公認武道団体となった。沖縄の空手道が日本武道として公認されたということは画期的なことであった。

 この沖縄空手倶楽部との関係は不明であるが、昭和十二年一月に「沖縄県空手道振興合」が発足した。屋部憲通、花城長茂、喜屋武朝徳、知花朝信、宮城長順、城間真繁、許田重発、真栄城朝亮、仲宗根源和等々が中心となって空手道の普及発展のために組織を挙げて尽力することになった。その活動の一環として、昭和十二年三月二十八日に誕生したのが「空手道基本型十二段」 である。これが今日の少林流系に伝わる「基本型T」と「基本型U」の原形である。その後、沖縄県空手道振興合として目立った活動を展開することもなく、大平洋戦争に直面した。沖縄戦は沖縄の全てを運命共同体的にし、沖縄空手界も有名無実な存在となり、そのまま戦後社会へ推移していった。

 不幸にも、第二次世界大戦の戦場となった沖縄は、戦火のさなかに、また終戦後の混乱期に、幾多の空手道の至宝というべき人々を失った。しかし、物質的に極度に困窮する最中にあってもなお正しい道統を絶やすまいと努力は各地で着実に続けられていた。ただ、各流派まちまちで、しかも同一流派間でもそうで、群雄割拠の様相を呈していた。各道場は一国一城の主的存在で各自それぞれ戦時中と終戦直後の空手を埋め合わすのに一生懸命になっていた。一九四五年から一九五五年にかけて、沖縄の空手界には組織らしい組織は何一つ出来ず、各流派には何の連携もないままに完全な疎遠状態が続いていた。また、一方、そういった事情とは無関係に沖縄の空手は着実に国際化の道を辿りつつあった。

 アメリカでの普及発展を基幹にして国際性を帯びるようになった沖縄空手であるが、肝心な本場たる沖縄において各流派がてんでばらばらという状態では、国際的な次元での諸要求に応じることはとても出来なかった。内外の情勢を直視し、本場の空手を正しく継承伝授し、国際的に普及発展をさせ、国際化に対応するには何らかの組織的体制を固め、情報交換を行い、技術を開発し、理論を確立することが急務となった。空手の本場という使い古された既成概念と国粋的伝統感覚に固執している限り、刻々と変り行く国際空手の趨勢には最早立ち向かえないようになった。それだけに沖縄の空手界には、自己の立場を反省する必要があった。このような問題や必要性を時代的背景に一九五六年五月に上地流(上地完英)、剛柔流(八木明徳)、小林流(知花朝信)、松林流(長嶺将真)の四大流派が那覇の長嶺道場で「沖縄空手道連盟」(以下「沖空連」と略する)を結成し、大同団結を誓い、内外の動きに対応出来るように体制を固めたものである。沖縄空手の国際的発揚の曙はかくして始まった。しかし、沖空連結成から七年目の一九六三年に小林流の知花朝信一流派が沖空連を脱退した。いろいろな思惑が重なり合っての脱退だが、小林流究道館(比嘉杵重)はそのまま留まった。

 時は暫時流れた。その間、各地に散在する道場(流派)を一つの組織に統一しようという声が漸次高くなり、その機運も熟した。一九六七年の二月に沖縄空手道連盟を解消し、新規加入も含めて、従来とは異なった陣容をもって「全沖縄空手道連盟」が設立された。

 全沖空連傘下の流派には上地流、小林流(比嘉祐直)、松林流、小林流、渡山流、少林寺流、松林少林流等々があり、初代会長には松林流の長嶺将真氏、副会長には上地流の上地完英氏、剛柔流の八木明徳氏、少林流の島袋善良氏、理事長には比嘉祐直氏が就任している。

 論を侯つまでもなく、数多くの下部組織を持ち、それらを総括し、伝統の灯を守り、武道空手の担い手として、時代時代の波を乗り越えて沖縄空手界に君臨してきた唯一無二の組織は「全沖縄空手道連盟」である。

 新設「全沖縄空手道連盟」に新規加入した流派は、渡山流(兼島信助)、少林流(島袋善良)、少林寺流(仲里常延)、松林少林流(新垣盛起)等であったが、早くも一九七三年八月二十日剛柔流空手道協会が従来確実になされていた会計監査、諸行事の結果報告がなされていない、会長選出の件、将来期待出来ない等々の理由で脱会した。そして渡山流(兼島信助)が、一九七四年一月十四目付けで諸般の事情により脱会した。脱会もあったが、一九七五年十二月三十日琉球古武道保存振興会(赤嶺栄亮)が入会した。一九八十年、中部少林流(幸地克秀)も一身上の都合で脱会した。

 全沖空運は、その誕生より十四年目にして、組織の存亡をかける歴史的な試金石となる深刻な事態に直面した。国体参加問題であった。昭和五十六年滋賀国体より空手道が正式種目となり、それに参加するには先ず日本体育協会傘下の「全日本空手道連盟」(会長・笹川良一)加入しなければならないという難問に直面したのである。全日空連にとっては空手の本場沖縄は是非必要であったのだ。全国都道府県で未加入団体は沖縄の全沖空運だけであり、しかもあの手この手を使って全日空連への加盟を勧誘されるという過去の事情も相まって、この加盟問題を軽く考えるわけにはいかなくなった。全沖空連は沖縄最大の組織であり、しかも沖縄県体育協会の下部組織であったがゆえに、それを避けて通るわけにはいかなくなった。全日空連への加入問題をめぐって賛否両論が激しく展開され、沖縄空手界は大きく揺れ動いた。空手の本場として不覇独立精神に燃え続けてきた沖縄空手界は、主体性を貫くか、それを放棄するかという斯道精神史上かつてない大きな試練の時期を迎えた。その結果、沖縄の空手界は大和派と沖縄派に分断されるという歴史的な悲劇を自ら招いてしまった。事態は収拾のつかないまま推移し、混迷の度を深め、ついに沖縄県体育協会の独断でこの間題に形式的な終止符が打たれた。即ち、沖縄県体育協会(会長大里喜誠)は一九八一年(昭和五十六年)八月二十五目付を以って世にも不思議な経路で全く矛盾した屈辱的な除名処分を行った。それに代わるものとして「沖縄県空手道連盟」(会長長嶺将真)の発足を認めた。かくして、全沖空連傘下の一部組織は渡りに船というばかりに県空運に鞍替えした。また在野で陽のあたらない存在だった人々も大勢参加するようになった。寄らば大樹の陰とでも考えたのであろう。

 沖縄の空手界に組織上の分裂をもたらした沖縄国体(一九八七年<昭和六十二年>)は幾多の問題を残しながら終了した。

 全沖縄空手道連盟は組織こそやや小さくなったが、沖縄の心と武道文化を守り、一致団結した決意の元で連盟事業の推進と国際交流の重要な位置付けとして空手の持つ特性を生かし活力ある組織づくりに専念するものである。一九六七年の全沖空連の設立当時の四大巨星。剛柔流(八木明徳)、上地流(上地完英)、松林流(長嶺将真)、小林流(比嘉祐直)から二十八年の歴史が組織のたもとを分けた長嶺将真氏、比嘉祐直氏を除いて連盟加盟の各流派の中では確実に世代交代が進んでいった。全沖空連の八代目会長八木明徳氏より任を継いだ少林寺流空手道の仲里常延氏、三期六年間の安定成長へ連盟活動を導いた功績は実に大きい。上地流空手道協会に於いては、連盟加盟随一の強力組織が世代交代の時期を内部調整でもつれ、新会派沖縄空手道協会と従来の上地流空手道協会に分断された状況で連盟史上数少ない同系統の連盟存続で運営上難しい局面を迎えたのである。十二代目会長として選任された沖縄空手道協会の友寄隆光氏は、この局面を豊富な人徳と経験で乗り切ったのである。連盟最高顧問である上地流空手道宗家二代目、上地完英氏が平成三年二月二十四日七十九歳の天寿を全うし逝去した。

 平成三年四月、各流派が時代の要請に応え若返る中で、十三代目会長に剛柔流より新城正信氏が推挙された。若さと行動力をキャッチフレーズに連盟に新風を取り入れるべく大きな期待が寄せられた。その矢先、沖縄空手道協会(友寄隆光)が一身上の都合で組織をもって脱会した。同系統の存続加盟に問題を含めながら一会派で独立した運営力に自信を持っていたことも事実である。連盟組織は従来にも増して少数精鋭の陣容となった。度重なる脱会入会の離合集散にあっても組織は真実の道を求めて継承されるべきものである。近代空手の躍進に微妙な相違点を含みつつも継承責任者にはその接点を見出す義務も生じた。

 事業方針に全く話題の出なかった試合規定、審判規定、競技規定、公認審判員制度等、スポーツ競技面で空手の制度改革に着手したのである。各流会派伝統性を尊び頑健性に時代推移を見つめ空手人が目標と夢を持ち、互いに切磋琢磨し得る道を開拓したのである。若手育成に全精力を傾けた新城正信会長は任期半ばにして病という運命に克てず平成五年十月十五日に諸行は無常帰らぬ人となってしまった。

 残任期間を歴代会長在位最長の仲里常延顧問が十四代目会長として再び選任された。沖縄空手界のリーダー格としての重責もある中で沖縄県主催による平成七年度大平洋戦争終結五十周年世界空手道・古武道プレ大会、平成九年度に開催される県立武道館完成記念世界大会へ全沖空連としていち早く協力参加の声明文を発表した。沖縄空手道の拠点づくりと、沖縄空手界再結束の基盤作りの為、将来の大局を見失うことなく二十一世紀へと発信したのである。

 沖縄県行政主導による、五日間の世界空手・古武道プレ大会は、若干の批判はあったものの、先人達が「船楫をもって万国の津梁となす」と壮大なロマンを描いて、平和の使者を自認してきた琉球王国の歴史にふさわしく、この沖縄有史上世界二〇ヶ国から四三六人の選手が参加したことは、大きな成果であろう。とりわけ外国選手の受け入れ態勢や期間中の気配り、更に長老や高弟による各流派の空手道・古武道のセミナーは好評を博した。平成九年度の世界大会は、今回の反省を踏まえ成功を祈念するものである。(平成七年八月)

 全沖縄空手道連盟結成当初からいわゆる三十年のあゆみ「道」が発刊されたことは、ご同慶のいたりである。このことは、離合集散を繰り返している空手界にあって他の組織に対し大きな刺激となるであろうと自負する次第である。更に空手界の国際化に突入した昨今、それに対応すべく歴史書としても貴重な書である。初心を守り通してきた五流派三、〇〇〇人の会員がますます切磋琢磨し、団結は力なりを再確認し、空手道に精進することを誓う次第である。(平成七年九月)

 沖縄空手界が世界的な活況を築き、一段と注目され、特に沖縄県内においては、空手道の文化財指定を目指す世論が高まっている近年、安易に戦前の昔から呼称されている「型」を「形」の用字でいわゆる誤った見解や表記が堂々と行われていることは、「千古の憂い」を残す恐れがあるので、全沖縄空手道連盟では「型」に内包する武術意義や禅の道の教え、更に国語的語義等から検討した結果、「型」が正しいことを再確認した。空手道の修行に精進する者は、「付和雷同」し「朝令暮改」にならないようにしたいものである。ここでいう型とは、一連の攻防がまとまっている一つの「カタ」を構成した「型」例えば「クーサンクー」の型、「スーパーリンペー」の型、「セーサン」の型、いわゆる総体を示す場合は「型」。「形」とは一つの技、例えば「正面突き」の形、「上段受け」の形、「横蹴り」の形の様に一つの技を示す場合は「形」という概念である。いわゆる「形」を集大成したのが「型」である。(平成七年十一月)

 連盟結成以来、終始一貫空手道の大同団結に情熱を燃やされ、その発展に貢献された名誉顧問八木明徳先生が八十五歳を迎えられるに当たり、これまでのご功績を称え、さらなる長寿を祈念して、連盟主催の誕生会が平成八年四月二十一日、盛大に開催されました。

 沖縄の空手・古武術が県の無形文化財に指定され、平成九年八月八日付でその技能保持者として、三名の長老が沖縄県無形文化財保持者に認定された。当連盟顧問、剛柔流八木明徳氏(八十五歳)がその栄誉に浴されました。因みに、当連盟外の組織からは、松林流長嶺将真氏(八十九歳)、上地流糸数盛喜氏(八十一歳)も同様認定された。

 沖縄県立武道館落成を記念して、「沖縄空手・古武術世界大会」 が平成九年八月二十一〜二十五日迄、同武道館で開催され、五〇ヶ国から一七〇〇余名の選手が参加、当連盟からも役員、審判員、選手が参加協力した。

 平成十二年九月十二日付けで当連盟顧問の仲里常延氏が沖縄の空手・古武術無形文化財保持者として認定された。

 当連盟顧問の仲里常延氏の受賞祝賀会が全沖縄空手道連盟主催で盛大に開催された。その席で仲里常延氏は『無形文化財保持者とは、文字通り「技」や「技術」即ち「型」そのものを指しているのであって、個人や集団を指しているものではありません。従って、文化財保持者は、師の型を心技体まで体得し、次代へ正しく伝える義務があります。所謂「一器の水を一器にそそぐが如し」であり、一滴の増減もなく受け継いで無窮ならしめることであります。禅の道で言う嫡嫡相承であります。人間社会は「万古不易と一時流行」から成り立っていると言われています。無形文化財は、まさしく「万古不易」であるということに価値があります。』と強調した。因みに、当連盟外の組織からは、小林流・官平勝哉氏、仲里周五郎氏、剛柔流の伊波康進氏、湧川幸盛氏、昭平流・友寄隆宏も同様認定された。

 平成九年八月に開催された沖縄空手・古武道世界大会終了後、この世界大会を「四〜五年おきに開催したい」との思いを知事が表明されたのを受け、県教育委員会では、沖縄の空手・古武道を正しく継承し普及発展させる拠点づくりを推進し、世界各国との文化交流を通して国際性豊かな人材を育成する為、沖縄空手・古武道国際セミナー(仮称)検討委員会設置要綱が平成十年十二月二十一日付で教育長決済され、第一回検討委員会が平成十一年一月八日午後二時から県立武道館で開催された。検討委員会に検討委員十三名(武道関係者五人、行政関係者六人、学識経験者二人)、幹事二十二人(武道関係者十七人、行政関係者五人)が教育長より委嘱状が交付された。検討委員に全沖縄空手道連盟から仲里常延顧問、幹事に知念正常理事長が任命され、任期二年間勤務した。

 このように二年間検討し推進した業務に対し沖縄県空手道連合会から事業を凍結して欲しいとの物言いがあり、事業が一時中断した。教育委員会としては本事業を成功させるため、県内主要三団体(全沖縄空手道連盟、沖縄県空手道連盟、沖縄県空手道連合会)と意見交換し、新たに検討委員会を立ち上げる事になった。

 新たな検討委員会が平成十三年三月二十一日午後三時から県庁舎十三階第一会議室で開催、当連盟は本事業推進に全面的に協力するため、委員三人(仲里常延顧問、瀬長義常会長、新垣宜春理事長)幹事五人(知念正常、沢岨政輝、小渡雅己、富盛正雄、翁長良光)を選出した。

 平成十三年十一月二目〜三日の二日間、海外に在住する県系人を中心として沖縄をこよなく愛する人々が集うイベントとして「世界のウチナーンチュ大会」が開催され、多彩なイベントが実施された。その一つの部門として「空手道・古武道交流祭」(実行委員会会長・稲嶺沖縄県知事)が実施され、全沖縄空手道連盟から二十二道場約五百名が参加し、それぞれの流会派の型を心技体まで体得し、正しく継承されているかを世界のウチナーンチュとともに確認する場となった。

 当連盟顧問八木明徳先生が、平成十五年二月七日、九十二歳の天寿を全うされご逝去された。生前の先生の功績は空手界のみならず各般に亘り多大なることが評価され、各界から多数の著名人の参列により、葬儀は「厳か」に執り行われた。

 従来、沖縄の空手・古武道世界大会は県主催で開催されたが、今回初めて県と空手関係四団体(全沖縄空手道連盟、沖縄県空手道連盟、沖縄県空手道連合会、沖縄空手・古武道連盟)共催により「二〇〇三沖縄空手道古武道世界大会」と銘打って、二〇〇三年八月十六日から十九日までの四日間に亘り、沖縄県立武道館において盛大に開催された。ちなみに参加者は海外三十一ヶ国五四四名、県内外四一〇〇余名であった。

 平成十五年十月九日、琉球新報社は第三回沖縄空手道古武道功労賞を当連盟会長仲村良雄氏に贈呈、他の団体からは石川精徳氏、仲程力氏、仲本政博氏、伊波光太郎氏の各氏にも贈呈された。

 二〇〇五年(平成十七年)三月二十九日(火)沖縄県議会は十月二十五日を「空手の日」として制定する宣言決議をした。この事については、沖縄の空手家が一九三六年(昭和十一年)十月二十五日に協議し、従来の「唐手」等を「空手」と呼称し表記する事を公式統一した日を記念したものである。

 二〇〇七年(平成十九年)十一月八日には、当連盟顧問の仲里常延氏が県文化功労賞を受賞した。

 二〇〇八年(平成二十年)二月十四日に人材育成懇話会のご尽力により県内の主要四団体が統一され、沖縄伝統空手道振興会を設立し、初代会長に沖縄県知事が就任した。同年十一月三日午後四時より県庁舎十三階第二会議室において「二〇〇九沖縄伝統空手道世界大会」を成功させるための実行委員会設立総会が設立され、当連盟より委員二名(副会長瀬長義常、常任委員宮城政明)が選出された。

 二〇〇九年八月十四〜十六日には、二〇〇九沖縄伝統空手道世界大会が開催され、全沖縄空手道連盟として協力・参加した。

 当連盟の顧問仲里常延先生が平成二十二年九月七日八十八歳の天寿を全うされご逝去された。先生は当連盟の会長を通算六期十一年余歴任され、当連盟を安定成長へと導いた功績は実に大きい。これまでの功績が評価され平成十二年に沖縄県指定無形文化財沖縄古武術保持者に認定され、平成十九年に沖縄県文化功労賞を受賞された。

 平成二十二年には当連盟の瀬長義常会長が沖縄県文化功労賞を受賞された。

 平成二十五年十月二十三日、琉球新報社は第五回沖縄空手道古武道厚労省を当連盟相談役知念正常氏に贈呈、他の団体からは喜友名朝孝氏、比嘉稔氏、宮城驍氏、照屋幸栄氏、与那嶺幸助氏、阿波根直信氏が贈呈された。