『唐手(空手)』は、沖縄古来の「手」(てぃー)を基礎として発達してきた武術です。達磨大師の伝説で有名な中国の嵩山(すうざん)少林寺(左の写真)を始源とする中国拳法にも大きな影響をうけ、琉球王国で育ってきました。明の初代皇帝=朱元璋(在位1368〜1398)が琉球に遣わした使節も中国武術をもたらしていましたが、本格的に「唐手」が発達するのは、薩摩藩=島津氏による侵略(1609年)の後の時代。薩摩による植民地的な支配を受け、禁武政策によって、日常的な刀剣類の携行を禁じられた琉球王国の士族が、素手あるいは棒などの道具だけで、ふりかかる危険から身を守るべく、密かに鍛え、発展させて、一子相伝、受け継いできたのだと言われます。「武器なき王国」の「守礼の民」は、日本刀を腰にさし、大いばりで歩く薩摩藩士の姿を、ただ脅えて見ていたのではありませんでした。

 1879年(明治12年)、明治政府が軍隊を派遣して「沖縄県」の設置を強行し(「琉球処分」)、独立王国としての琉球は、完全に消滅しました。激動の時代、王国士族の身分も、彼らによって継承されてきた「唐手」も、翻弄されました。数多くの型や技、伝承が消えていったことでしょう。

 一方、失伝をまぬがれた「武の系譜」は、少しずつ士族階級から市民にひろがり、大正時代末期になると日本本土にまで伝わりました。 が、日本軍国主義に飲み込まれてゆく過程で、中国を意味する「唐」の字が嫌われ、文字も発音も、『唐手(とぅでぃ)』→『唐手(からて)』→『空手(からて)』へと変わり、型や技にも、大きな変化が持ち込まれました。古武道である柔術等から「柔道」をうみだした講道館の嘉納治五郎(かのうじごろう)館長は、空手の技にも注目し、本土での普及に大きな役割を果たしました。空手を競技化する工夫がさかんにおこなわれました。しかし同時に、その過程で古流の型と技にふくまれていた武道性も、少しずつ失われていったのです。

 この時代を生きた喜屋武朝徳(きゃんちょうとく)師(1870-1945/右の写真)は、琉球王(第二尚氏)の血筋をひく士族で、小柄で細身ながら「掛け試しで負けなし」、「拳聖」とよばれた人。何もかもが激しく変わりゆくなか、口伝のみで継承されてきた秘技=唐手の型と技を、いささかも変えずに次代に伝えること(無修正主義)に努めました。

 惜しくも1945年、喜屋武朝徳師は、「国体護持」の捨て石にされた沖縄戦の犠牲となりました(享年76歳)。
いま、糸満市・摩文仁が丘(まぶにがおか)の「平和の礎(へいわのいしじ)」や、読谷村・比謝矼(ひじゃばし)自治会による戦没者慰霊塔などに、師の名前を見ることができます。

 戦前、6年間にわたって喜屋武朝徳師に師事して唐手を学び、その志をついだのが少林寺流の開祖=仲里常延(なかざとじょうえん)先生(1922-2010/沖縄県指定無形文化財保持者/左の写真)です。
 常延先生は1955年、「すべては源流へたちかえれ」の思いを込めて、朝徳師から常延先生へと伝わる唐手の系譜を「少林寺流」と命名しました(朝徳師が伝える唐手は、当時の分類では「首里手(すぃーでぃー)」と呼ばれる系統で、一部「泊手(とぅまぃーでぃー)」を含んでいます/もうひとつの系統に「那覇手(なふぁーでぃー)」があり、現在の「剛柔流」に受け継がれています)

 私たち芦屋道場(沖縄空手道少林寺流振興会神戸支部/全沖縄空手道連盟公認道場)は、常延先生の高弟で現役最古参の親川仁志先生(沖縄空手道少林寺流振興会代表師範)指導のもと、空手発祥の地=沖縄で、世紀を越えて受け継がれてきた古流の型と技、そして 「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」 のこころを、全国の仲間とともに学んでいます。